稲葉賞の概要
稲葉良治賞の誕生
下田高校の「稲葉良治賞」は、昭和52年度(1977)に誕生して、以来、半世紀、卒業式に授与されている名誉ある賞です。
下田豆陽会(同窓会)は、本校の前身、豆陽中学校第23回卒業生・稲葉良治先生が多額な育英資金を寄せられたことから、学校当局と共に「稲葉良治賞選考委員会」を設置して、卒業生を対象に在学中の学業、行動等、模範とするに足る数名に賞状、記念品を贈り、顕彰しています。原資は後輩たちの育英を志した稲葉先生の基金による利子で運用されています。
稲葉良治先生について
稲葉良治先生
(明治36年 - 平成13年)
学生時代
稲葉先生の本籍地は賀茂郡上河津村梨本(当時)で、明治36年(1903)2月生まれ、地元の上河津尋常高等小学校から都立中学豆陽学校に入学したのは大正6年(1917)4月のこと、稲村落合の親戚宅に寄宿し、通学時は学帽、詰襟の制服、ゲートルを巻いて革靴でした。
在学時には県立に移管されています。校長は「南豆風土誌」を編集された足立敏太郎で、豆中の振興は著しく、大正10年度・県下中学生学力比較試験では、全体の成績が静岡県下第一位となったほどです。
先生は学業優秀、遊泳部に所属され、柿崎海岸の仮設プールで練習し、対外試合でも活躍されています。当時の進級は厳しかったが故に、大正11年(1922)3月の卒業生は31名でした。
教育者としての歩み
その後、静岡師範から広島高等師範を経て、東京文理科大(筑波大)に進まれ、昭和14年(1939)には内閣より陸軍教授を命ぜられ、陸軍省からは陸軍航空士官学校付け、宮内省からは正六位・高等官四等に叙せられています。
戦後の稲葉先生は12年間に及ぶ都立高校長職を歴任、都立退職後は玉川大学等の教授、講師を務められました。
晩年と遺志
先生は98歳の長寿でしたが、晩年の3年間、先生のご自宅に伺った元校長は次のように述懐しています。
先生ご夫妻は清廉質素の生活をされながら、コツコツと浄財を蓄えられ、それが母校の後輩に資することを願いました。
「私の基盤は豆陽中で創られた。」
と懐かしみ、母校の発展を喜ばれました。
平成13年(2001)に逝去され、8月に弔問された校長に、夫人は語られました:
「亡骸は医学研究のために献体しました。残る浄財は豆陽会に寄付します。夫の遺志を全うして私も安堵しました。これで終わりです。」
(なお、夫人はお茶の水女子大大学院講師、埼玉大教授等を歴任、平成19年(2007)、101歳で良治先生のもとに旅立たれました)
道元禅師に「放てば手にみてり」という教えがありますが、ご夫妻は校祖・依田佐二平翁の校是「至誠報徳」の如し、非凡に薫る余生でした。
(令和7年4月記)
稲葉良治表彰規定
(目的)
1 豆陽中学校第23回卒業生稲葉良治氏(河津町出身)が静岡県立下田北高等学校同窓会・豆陽会に委託された寄付を基本基金とし、この定期積立の利息をもとに、静岡県立下田高等学校同窓会・下田豆陽会が有為の人材育成のため、賞を授与する。
(賞を受けることができるもの)
2 静岡県立下田高等学校の第3学年に在学して学習成績に優れ、行動良好であり、全校生徒の模範と認められるものとする。
受賞者は原則として若干名とする。
(受賞者の決定)
3 受賞者は下田高等学校の推薦を参考にし、毎月2月、稲葉良治賞選考委員会(以下、選考委員会という)の審議により決定する。
(選考委員会の構成)
4 選考委員は、同窓会役員、校長、副校長、教頭、事務長、総務主任、教務主任、進路指導主事、第3学年主任をもって構成する。
(賞の内容)
5 賞状及び商品等は選考委員会が決める。
6 卒業式で表彰する。
7 書簡文掌は総務課とする。